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会長は、日本(福岡)で空手の修行を積み、1977年には山籠もりをして武道に専念し、翌1978年に下山後、台湾での国際擂台賽(らいたいさい)で優勝、そのまま本部内弟子となり台湾にて修行を積む。 帰国後、福岡歯科大学に復学し、自ら鍛錬のかたわら学生達の指導にあたる。
当時の門弟達が、日本支部の名称を会長の本名・岡部知剛(おかべともたけ)を音読みにして知剛塾(ちごうじゅく)と名付け、のちにこれを会長も了承し、現在に至る。
過去27年間150戦以上の戦績を誇る。台湾で開催されたベアナックル(素手)選手権大会において、日本人初の世界チャンピオンとなる。また、ムエタイ・スタイルにおいても、タイ人と長年交流戦を行い、幾度となく勝利を修めている。
日本放射線学会認定の歯科医師でもあり、「日本一強い歯科医師」として知られている。
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アジアでは、4500年の歴史を持つという中国武術にも、その昔「何でもあり」の試合が存在していたという。これは擂台賽(らいたいさい)とよばれるもので、いわゆる戦争での白兵戦の技術を競うものであった。
試合は擂台と呼ばれる2〜3メートルの高さの台の上で行われ、競技者は試合開始とともにまずこの台に登ることからチャレンジしなければならない。この台に自力で登れなかった者は、資格なしとして闘わずして負けが宣せられたという。
そのルールは言葉どおりの「何でもあり」で、金的や目つぶし、倒れた相手への攻撃もOK。競技者は武術家としてのアイデンティティーを守るため、死を覚悟して試合に望んだという。そして擂台賽で勝利を得たものは、武術家として揺るぎない名声を手に人れることができた。
1949年、多くの武術家たちが国民党政府とともに台湾に移ったため、その後は台湾でルールを徐々に強化しながら続けられていた。中国武術は台湾では国術と呼ばれ、擂台賽も現在では国術比賽(コースー・ピーサイ=国術の試合という意味)と呼ばれている。
会長が擂台賽に出場しはじめた20年ほど前には、すでに倒れた相手への攻撃やグラウンドでの関節技に制限が加えられていた。しかしそれでも危険なスタイルには違いなく、150人近くが参加したトーナメントでは約40人が救急車で病院へ運ばれ、死者も何人か出るほどだった。
現在台湾では、道場のスパーリングとしてはこの「何でもあり」のスタイルを行うこともあるが、大会では当局のお達しで防具の着用や、安全性確保のルールの強化により、以前のようにケガ人が出ることは少なくなっている。
なお、会長は、当時の素手での顔面殴打が認められた大会(1970〜80年代)で全台湾、国際・世界大会等で度々優勝し、1991年には日本代表として北京で開催された「中国散打」の世界大会にも出場している。また、擂台賽、散打以外にも幾度となくムエタイとも交流戦を行い、好成績をおさめている。
1997年3月腰椎骨折により長期療養を強いられるも2000年4月復帰戦を行い、現在も現役にこだわり修行中。 |
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当道場の本部は中華民国(台湾)であり、ヨーロッパ・アメリカ・東南アジアに各支部を有する。
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